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化粧の文化史

日本の歴史をふり帰ってみると、『古事記』『日本書紀』などの記述や、古墳時代の埴輪の顔色彩色から赤色顔料を顔に塗る風習があったことがわかる。

原始的な化粧から美意識にもとづいた化粧へ発展したのは、6世紀後半、大陸や半島文化の輸入とともに、紅、白粉などの化粧品を知ってからであろう。持統天皇6年(692年)には、僧観成[そうかんじょう]によって日本で初めて鉛白粉[なまりおしろい]が作られ、女性であった持統天皇に献上したところ、大変喜ばれたという。

平安時代も遣唐使廃止後は、唐風模倣から日本独自の化粧へと変化し、丈なす黒髪に白粉を塗り、眉を抜いて額の上部に眉を描き、お歯黒[はぐろ]をするようになった。

室町時代になると、武家の制度や礼儀作法が整備され、化粧に関することも記述されるようになった。また、この頃から白粉や紅などを扱う職人などが『七十一番職人歌合』といったもの描かれるようになる。

江戸時代(17世紀)には、女性向けの礼儀作法も充実し、化粧の心得なども詳しく記されるようになった。当時の化粧は、色でいえば赤(口紅、爪紅)・白(白粉)・黒(お歯黒、眉作り)の3色が中心であった。

江戸時代、女性たちが特に心して行なったのが、白粉化粧で、諺の “色の白いは七難かくす” の通り、色白が美人の第一条件だったからである。

白粉には、鉛白粉が使われ、水で溶いて手や刷毛[はけ]で付けた。白粉として有名だったのは、江戸後期に発売された「美艶仙女香」で、白粉の発売元と浮世絵の版元が手を組んでPRを行なったことは、よく知られている。

紅は主に紅花[べにばな]から作ったもので、唇、頬、爪などに塗ったが、白粉と同様、薄くつけるのが上品とされた。しかし、江戸後期になると、口紅を濃くつけて笹色[ささいろ](玉虫色)にみせることが流行した。紅花の生花から作った紅は、紅一匁、金一匁といわれるほど高価なものであったと言われている。

お歯黒は中世以降、成人式あるいは婚礼といった通過儀礼と深く結びつき、江戸中期以降には、結婚に前後して歯を染め、出産すると眉を剃り落としたので、既婚女性を象徴する化粧になった。

眉化粧は、ある程度の年齢になった公家や武家といった上流階級の女性たちが、眉を剃り落とし、額[ひたい]の上部に別の眉を描いたものであった。

近代に入り、明治3年(1870)太政官布告[だじょうかんふこく]で華族にお歯黒と眉剃りが禁止された。明治6年(1873)には、昭憲皇太后が率先してお歯黒をやめられたのを機に、徐々に一般の女性たちも止めるようになった。明治10年(1877)頃からは、鉛の毒性が問題となったのを契機に無鉛白粉[むえんおしろい]が研究され、明治37年には商品化された。

大正時代になると、女性の社会進出とともに、スピード化粧や対人関係を円滑にするための化粧が少しづつ提案され出した。それまで白一色だった白粉も多色白粉へと発展し、口紅もそれまでの紅花からつくったものから、顔料や染料を配合した棒状口紅へと移っていった。また、バニシングリームやコールドクリーム、乳液などもあらわれ、大正から昭和にかけて化粧は洋風化していった。

第二次世界大戦が終って昭和26年(1951)頃から、アメリカの雑誌や映画などの影響を受けた。昭和29年(1954)、わが国にアメリカからパンケーキが紹介された。これ以後メークアップ化粧品が一般に注目され、関心が集まりはじめた。昭和35年(1960)以降になると、化粧のポイントがアイメークと口元を強調する傾向に移り、昭和50年(1975)以降、学生や20代の女性中心にサーファールックや太い眉が流行した。

 現在では個性的なメークアップや爪を美しく装飾するネールアート、機能を持つスキンケア製品や、美白などの薬用化粧品が注目されている。江戸時代のように色白であることが美人ということではなく、多様な目的に合わせた製品、また肌への有用性を期待する時代になったと言えよう。